ひなめも

長文用(140文字に収まりきらない感じの)

思想に酔い攻撃的になるということについて。

Twitter女性差別児童ポルノを標的として片っ端から運営に削除要請している集団がいるようです。

なんでそうなるのか、少し考えてみたことをメモしておきます。

(ぐだぐだなので後で加筆・修正する可能性が高いです。)

 

子供の頃ケンカしたことないんじゃないの?

ようするに「引き際を知らない」んじゃないかと。

 

何をしたら相手がブチ切れて全力で殴りかかってくるのか。

どこまでなら主張していいのか。

そういう体験がないまま大人になってしまったのではないでしょうか。

 

私は、この世のすべての争いの本質は「交渉」である、という解釈をしています。

価値観の違う二人の人間がいれば、必ず発生するものです。

 

りんごの生産者は100円で売りたい、購買者は80円で買いたい。

そうすると普通は90円前後で取引するのが、交渉の結果として得られるお互いの利益でしょう。

 

ですが、購入者側が頑として80円のラインを譲らなかったら?

 

購入者はりんごが手に入らない、生産者は商品が売れない。

お互い損をするばかりです。

 

ここに一つポイントがあります。

交渉である以上、相手から見た場合の価値を上げてやればいいのです。

 

なので、購入者はしばしば、以下のような要件を追加しがち。

 

80円で売らなければ、暴力的に奪い取る。

生産者のりんごの悪評を拡める。

 

多くの生産者は、これはデメリットだと考えるでしょう。

で、あれば、10円程度投げ打ってでも、「相手の怒りを鎮めること」が交渉の対象になります。

そんなバカな?と思うかもしれませんが、これが世の中の争いごとの本質なのです。

 

 

通常は、子供の頃のじゃれ合いで、どこから先が踏み込んでいけない領域なのかを学習するものです。

ある程度知能のある動物であれば、微笑ましいじゃれ合いが、どの程度の段階からブチ切れ同士のケンカに発展するか、そういうことを学習して育つものです。

 

冒頭で述べたような、相手の事情も思想も関係なく殴りかかっていくような人たちは、この「学習」をしないまま、暴力的な「手段」だけ手に入れてしまった人間なのではないでしょうか?

 

自分の力を過剰に見誤っているのでは?

インターネットは、微妙なバランスの上で成り立っているものです。

このバランスを保つことは難しいですし、一方で、積極的にこれを崩そうとするのは簡単でしょう。

 

多くのインターネット上のサービス提供者は、バランスを保つことに努めています。

これは非常にありがたいことです。

 

しかし、バランスを崩そうとする人間にとっては、ここが弱点として浮かび上がるのです。

 

通報すれば、運営は無視しきれない。

数をこなすことで、実績だけは回収する。

 

通報したのに削除されなかった事例は、他のユーザーからは観測できないので、「自分がどれほどの暴力を振りまいているか」というのは、他人からはわかりません。

もしかすると、自分自身でも把握しきれていないのではないでしょうか。

 

あぶり出されてしまった人は、おそらく自分の「努力」を認めてもらいたいがために、「実績」を表に出してしまったのでしょう。

そうでなければ、ただ淡々と通報だけしていれば、攻撃の主体はまず見つけられません。

 

 

暴力は、その副作用を知らないまま振るえば、非常に魅力的な手段です。

 

交渉が万事思うようになる。

その魅力に抗いきれる人間のほうが少ないでしょう。

 

 

交渉術としての、暴力への対応方法

以上のことを踏まえた上で、対策を講じてみます。

 

人類史における戦争からの一つの視点。

圧倒的な暴力を振るう国が現れた場合、その対処法とは何だったでしょうか。

 

一つの答えは、「焦土作戦」だと思います。

 

係争が長引けば、お互いに重いコストを負うものです。

そうすると今度は、「調停すること」という新しい価値観が生まれます。

 

ベトナム戦争の折、北ベトナム軍は、アメリカを泥沼のゲリラ戦に持ち込みます。

結果としてアメリカ軍は、実りのないまま撤退を余儀なくされましたが、これは、本来は推奨されない戦い方です。

 

人類史は、戦争をする上で

 

「戦闘員と、非戦闘員を明示的に区別すること」

 

という一つの妥協点を見出しました。

お互いがお互いを滅ぼすまで続けるのは割に合わない、ということです。

 

しかし、アメリカ合衆国は、戦わねば国民全員が滅びるところまで相手を追い込んでしまったのです。

 

「座して死を待つより、戦って死すべし」

 

とまで、係争相手に言わせてしまったのは、やはり国として「交渉の初心者」だったからでしょう。

 

先のりんごの例に戻れば、

 

「暴力に屈してでもりんごを相手に渡さない、最悪の場合自ら商品としての価値をゼロにしてしまう」

 

という「交渉」を、生産者から突きつけられたわけです。

 

これは悲劇と呼ぶしかないですが、相手が加減を知らなければ、またひとつの選択肢として浮き彫りになってくるものでしょうね。

 

 

結局どうしたらいいの?

主義主張の世界で同じようなことをしようと思うのであれば、以下のような実装になるでしょう。

やはり推奨されないやり方ですが。

 

裁判に持ち込んででも自分の主張を通し続ける。

予算は借り入れとし、もし負けたら速攻破産宣告をしてしまえば、相手は何も得られない。

 

イチャモンを付けてきた相手は集団、実態は見えない。こんな卑劣な争いもないでしょう。

しかしそれは、やはり「相手のブチギレラインが見えていない」から起きている事象ではないでしょうか。

 

 

日本、朝鮮、ベトナムと、アメリカは随分な大盤振る舞いをしたようですね。

 

今の広島市デトロイトの写真を並べて、「どちらが戦勝国か?」と問えばわかるでしょう。

何も知らない多くの子供達がどちらを指すのかは自明です。

 

交渉というのは、本来は相手に一方的に主張を通す手段ではないのです。

暴力というのは、その本質を見失ったまま自らを火の車へと突き落としていくものなのです。

 

願わくば、このようにお互いに不幸しかもたらさないような解決法は避けて通りたいものですね。

 

ぐだぐだ。

- 2016/10/01 18:00 掲載